人間学的教育学の確立をめざして
1. 哲学における中心的課題としての人間
<ボルノーの哲学的課題をめぐって>
人間の人間的発達を保障するために、人間の本質についての哲学的探究の成果を、教育学における基本的していくこ課題として提供と、それが哲学における中心的課題の一つである、と言われています。ドイツの哲学者ボルノーが提起している、教育学への提案から学んでみたい。
2. 哲学的人間学 −人間とは何か−
哲学の根本問題は、人間そのそものであります。人間とはどのような存在なのか、という問いにたいする現代の哲学者たちの言葉を聞いてみたいと思います。
"人間は環境世界から自己を解放し、衝動から解放されて、自覚的に対象と関わ� ��うる存在"(シェーラー)であり、"自己自身に対して距離を保ち、客観的に自己自身と関わりをもちうる存在"(ブレスナー)であります。
"人間は本性的に文化的存在であり、動物と比べて欠如存在(生まれつきの武器や保護のための毛皮などが欠けている)であるため、自然が人間に与えなかった武器、装置、衣服、住居、伝統、制度、社会や国家の形態などを、みずから創り出さねばならぬ存在"(ゲーレン)である、と言われます。また、"人間の本質は、あらゆる事柄に対して未決の存在であることであり、世界に向かって開かれた問いとしての存在であると共に、閉じられている存在でもある"(ボルノー)という指摘もあります。
以上のような人間に対する理解に立って、私たちは教育という営みのあり方を考え� ��
いきたいと思います。
3. 教育学的人間学
教育という営みの中にあるあらゆる事柄を、人間存在の全体との関わりの中にひきもどしてきて、教育が人間の生の全体の中で、どのような機能を果たしていくのかを、問うことが教育学の根本問題であります。
人間とは、本質的に学習を必要とし、教育を必要とする存在であります。
人間は"訓練されうる生きもの"(コメニウス)であり、"教育されねばならぬ唯一の生物"(カント)であり、また"教育されるべき、または教育されうる生きもの"(ランゲフェルド)であります。
これまでの教育は、ややもすれば技術論的であり、有機体論的・生物学的な成長に委ねる教育学でありました。その主な特徴としては、連続的・形式主義的・機械論的・画一的な、� �育技術に偏った教育学であったと言わざるを得ません。
それは、教育という現象の一部分に過ぎないのです。
元来、人間の本質には失敗とか危機や挫折などといった、成長への妨害や、撹乱(かくらん)というような現象がつきものなのです。そのようなマイナスの要因と深く関わっているのが人間であり、教育を必要とする存在としての人間は、逆にそれらを契機として自己の再生と自己形成を可能にしていくのであります。
子どもを技術的・意図的に操ったリ、生物学的・有機体論的な考え方にたって、連続的・段階的・計画的なプロセスの上を歩かせたりという、一方的な教育方法が巾をきかせ、明治以来のわが国における近代化のためには、それなりに一定の成果をあげてきたのは事実であります。
しかし、こ� �まで見落とされ、あまり取り上げられることがなかった危機や撹乱、妨害などという、予測不可能な出来事が、子どもの発達の過程に存在するという事実を、私たちはしっかりと直視しなければならないと思うのです。こうした現象の中にこそ、人間を人間たらしめていく根本的な契機があるのです。そのような事実を認めることから、これまでの教育全体にたいする見方がすっかり変ってくるという重要な発見があるのです。
私たちは人間学的教育学という視点から、教育のあり方を新しく見直していくことが大切だと思っています。
例えば、ドイツの哲学者ボルノーは、次のように言っています。 "人間は絶えずその意図の新たな方向づけや変更を余儀なくされる。・・教育者は自分の教育計画の奴隷になることを警戒しな� �てはならない。"
"予見できず、計画出来ない有益な出来事とか、あるいはまた思いもよらない、今までまどろんでいた諸力の突然の目覚めといったことも考えるべきである。"
"教育はきわめて限定された範囲でのみ計画可能なのである。"
"計画と計画できないものとの交錯するなかで・・教師の・・自由さ・・自由に物事を処理する力"が決定的に重要な課題となってくるのである。<O.F. ボルノー著『問いへの教育』−哲学的人間学の道−川島書店刊より>
ボルノーが言っているのは、教育とか指導というのは、予測や予見することの極めて
困難な営みである、ということです。あらかじめ立てた計画通りに指導することは、不
可能なのだというのです。何故なら人間とは、そして子どもとは、抑圧や強制による一
方的な指導によって、深く傷つく存在なのです。
