『女性ライフサイクル研究』第10号(2000)掲載
女性ライフサイクル研究所 窪田 容子
1.はじめに
私には4歳になる息子がいる。家庭内では、男の子らしくとか、男の子だからとか、男の子のくせになどは言わずに育ててきたつもりだ。それでも、男の子だからか、それとも男、女に関わらず我が子の個性がそうさせるのか、保育所や地域などで男の子の文化を吸収していくことが大きな影響を及ぼしているのか、おそらくどの単一の要因でもなく、その少しずつがいくらかの割合で混ざり合っているのだろうが、どんどんと「男の子らしく」なっていく息子にとまどいを覚えることもある。そして、もしも息子がこの先ジェンダーの縛りがしんどく感じたときに、それだけではない生き方の選択肢があることに気付き、ジェンダーから自由になってより自分らしく生きていってくれたらと願っている。だから家庭内ではできるだけ� ��ェンダーフリーに接したいと思っている。
私は息子にとって母親であり、異性である。息子の方も、母親と父親に異なった感情を向け、異なった接し方をしているようだ。母親であり、異性である私は、この先息子にどのような感情を抱き、どのように接していくことになるのだろう。どんなことに心を配っていけばよいのだろう。この先息子は、母親に対してどのような感情を抱き、どのような接し方をしてくるのだろう。そして、父親は、母親と息子の関係に、どのように関わっていくのだろうか。私と息子との関係はまだ始まったばかりで、これから、私と息子の関係がどのように展開していくのか、特に男兄弟のいなかった私には想像さえできないことが多い。
そこで、母親と息子の関係を検討するに当たって、実際、母親たちが息子に対してどのような思いを抱いているのか、そして息子たちが母親に対してどのような思いを抱いているのかを知りたいと思いアンケートを実施した。
ひとつは、子どもをもつ母親に、息子、娘の違いについて尋ねたアンケートである(以下このアンケートを母調査と記す)。母親と息子の関係が本論のテーマであるが、娘についての思いも同時に尋ねることで、より息子に対する思いが明確に浮かび上がってくるものと考えた。もうひとつは、母親から見た息子との関係だけを検討するのではなく、息子からみた母親の姿を知ることで母親と息子の関係がより立体的に見えてくるものと考え、息子である(かつて息子であった)成人男性に母親と父親との関係について尋ねたアンケートである(以下このアンケートを息子調査と記す)。これも父親についても問うことで、より母親との関係が明確に浮かび上がると考えた。(アンケートの方法、結果については論文末に掲載)
本稿では、母親と息子の関係について、このアンケートも参考にしながら、フェミニズムの視点から考察してみたい。
2.母親と息子の関係における困難
(1)父親の不在と母親による排他的な子育て
産業化以前は、女性も含めて家族が農業などの生産労働にも従事し、子育てにも、家族や近所などの多くの人たちが関わり分担して行っていた。しかし、産業化に伴い、職住分離がなされ、家族が生産労働の場ではなくなり、男が家庭外での生産労働に従事し、女性の役割は専ら家事育児という性役割分担が進んだ。
総理府が1987年に行った日独米の比較データでも、平日は子どもとの接触がほとんどない父親が日本で群を抜いて多く、子どもの相手を積極的にする比率はかなり低いものであった。また、女性の生活史研究会が1981年に行った調査で、配偶者を「夫」「父」「職業人」の3つの観点から採点させたところ、どの世代の妻でも「父」としては最低、「職業人」としては最高で、家庭における父親不在、夫としての希薄な存在が端的に現れている。母親が孤立して、独占的に子育てに従事しているのが現状である。働く女性が増えてきてはいるが、現在に至っても子育ての多くを母親が担っているのが実情である。
アンケートにおいても、母親と父親のうちどちらと親しみを感じてきたか(息子調査質問9)、どちらとより気持ちを分かち合えてきたか(息子調査質問12)についての回答は、いずれも母親を選択したものが多かった。父親より母親と接する時間が長く、会話も多いことを理由としてあげたものが最も多かった。また、親離れがしやすかったのは父親という回答が圧倒的に多かった(息子調査質問13)。これもまた父親と接する時間の短さが理由としてあげられ、もともと離れていたとの回答さえあり、父親との関係の薄さがそのまま親離れのしやすさにつながっているものと考えられる。父は何も言わない人、父のことは全然気にしていなかったとの回答さえあった。母親とは対照的な父親の存在の薄さが感じられた。
一方、母親が孤立して、独占的に子育てに従事しているにも関わらずと言おうか、それだからこそと言えるのか、子育てに対する母親への期待は大きい。フロイト学説以降の心理学や社会学は子どもの発達に母子関係が決定的に重要性を持つことを強調して、女の母性的役割の強制と理想化のために新しい理論的説明を用意したとの批判もある(チョドロウ、1981)。日本でも「母性神話」「母性幻想」と呼んでよいような、母親からの子どもへの愛情と献身を美化する母性概念が根強い。母性愛が本能であるかのように考えられ、母親はかくあるべきであるという観念として母性の姿が強調されやすい。また、現在に至っても、女性が自己実現をしようとするとき、社会の制約は少なくない。
(2)情緒的な共感が得られないこと
一般的には、ジェンダーによる社会の期待から、男の子はごく幼いころから、「男のくせに泣かないよ」とか、「男の子なんだから、いつまでもくよくよしないよ」などと言われ、泣いたり、悲しんだりすることは女の子より否定的にとられ、情緒的な共感は得られにくい。
さらに、男の子にとっては母親が異性であるがゆえに、情緒的共感を得られにくいという面もある。息子に対するアンケートにおいて、気持ちを分かち合えてきたというのは父親よりは母親を選択したものが多かったが(息子調査質問12)、多くの母親にとっては、息子は娘より距離が遠いと答え、娘の方が共感しやすく、息子の方が理解しにくいと答えており、この逆の回答はなかった(母調査質問2)。息子にとって、子育てを独占的にしているものが、母親という異性であることは、母親と同性である娘よりは、距離があり、情緒的な共感が得られにくい体験しかもてないことを意味すると思われる。
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(3)世話を受け続け、自立が阻まれること
一方で、多くの母親は、娘に比べて、いつまでも息子の世話をやき、依存させておく傾向がある。(1)でも述べたように、母性が強調され、その上子育て以外での自己実現の機会が制約され、子育てが自分の存在価値を満たす唯一のものとなったときに、母親は無意識に子どもをいつまでも自分に依存させておきたいと思うのではないだろうか。子育て以外に、自分の力を感じることができなければ、子どもをいつまでも依存させることで、コントロールし、自分の力を感じようとすることにつながってしまうのではないだろうか。 母親が世話をやき、依存させることは娘よりは息子に向かいやすい。なぜなら、後述のように性役割の期待により、娘には他者を世話する側になるよう育てる傾向があるからだ。また、C・オリヴィ� ��の指摘によると、母親はゆりかごの中で男性を所有するといい、それには、妻を顧みない男性の愛を得るという痛々しい願望が存在するという。
母親へのアンケートにおいても、いつでも息子の方が気にかかる、息子はいつまでも愛するかわいい子どもですぐにかまってしまうなど、親の方も気がかかったり手がかかるのが息子だとする回答(5名)や、娘の方が早く自立するとの回答(3名)、息子の方が親を頼るとする回答(2名)(母調査質問2)、母親がいつまでも息子に援助し、息子もそれに頼るなどの回答(3名)(母調査質問3)、一生私の可愛い息子でいてくれれば愚息でも何でも構わないと思う(母調査質問5)などの回答は、上記のことと関係していると思われる。
息子へのアンケートにも、息子から見た母親の接し方では、情緒的、物理的に世話されることがよかったことのトップとしてあげられている(息子調査質問1)。いつまでも世話をされることは、息子にとってある意味居心地の良いことであろうが、それが少しずつ自立を阻んでいくのである。思春期母親に対して思っていたことに「自立心が壊される」との回答があった(息子調査質問3)が、これはこのことを意味しているのだろう。
情緒的、物理的に世話を受け続ることは、自立を阻んでいくだけでなく、男性にとって、人とのつながりは、情緒的に共感しあえる関係ではなく、世話を受ける関係ということと同義になっていく可能性がある。その構造を、結婚後は母親から妻へと移し替えていく。結婚後、妻に自分の身の回りの世話を求める男性や、夫は大きな息子だと語る女性は少なくない。妻には幼児のように世話を求め、受け入れてもらおうとすることは、夫婦関係を、支配しつつ支配されているという、いびつなものとしていく。
一方、アンケートにおいて、母親の接し方で良かった点について、意見の尊重や自己決定させてくれた(6名)などの回答や、信頼してくれた(3名)(母調査質問1)との回答もあり、これらの息子たちは、母親との間で世話されるだけでない情緒的関係を持っていたものと思われる。
ところで、このように書くと、娘は、息子よりも、良い関係を母親と持っているかのような印象を与えてしまいそうなので、母親と娘についても少しだけ言及しておきたい。アンケートにもあるように、同性であるがために、母親は娘の方が共感しやすいと思う傾向がある(母調査質問2)。しかしそれは、チョドロウも述べているように、娘を主体とした本当の共感よりはむしろ、母親が娘に自身を投影し、同一化してしまっている場合も少なくない。それは母親と娘に半共生的な関係をつくりし、そこでは相手を別個の人格としてみることができない。娘がこの関係から抜けだし、母親とは別個の自己を形成していくのには、多くの困難が伴う。一方、性役割により、母親は娘を、身の回りの世話について早くからの自立を求める� �けでなく、他者の世話をし、他者の欲求を満たすように育てる。アンケートにおいても、家事の手伝いも母は私を頼りにしていたとの回答や、将来の世話を期待するという回答があった(母調査質問1)。娘は、情緒的には適切ではない共感を受け、情緒的、物理的には他者の世話をするよう求められ、早くからの自立を強いられるということになる。(母親と娘の関係については、本年報の西の論文でも論じられているので、参照されたい。)
結局は、形は違っても、息子も娘も情緒的に満たされず、不適切な依存と自立を求められていることが多いといえるのではないだろうか。
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(4)父親の不在が男の子の性の同一化にもたらす影響
社会構造の変化により、子育てを母親が独占的に排他的に行うようになり、父親の姿は、息子にとってほとんど影が薄いものであることが、アンケートからも伺えたわけだが、男の子にとって異性である母親が、独占的に排他的に子育てをしているという状況は、どんな影響をもたらすのだろうか。
チョドロウは母親がほとんど独占的に幼児の面倒を見、本当に幼児と最も意味深い関係をもっている社会では、幼児の自己意識は主に母親との関係のなかで発達すると述べる。
それは男の子であろうと、女の子であろうと変わらない。しかし、性の同一化をはかろうとするときに、その様相はかなり異なってくる。女の子は、母親との関係を維持したまま性の同一化をはかることができる。一方、男の子が男性としての同一化をはかろうとするときは、まず母親への同一化を異性であるがために断念し、母親の性である女性との脱同一化が必要になるとチョドロウは述べる。そのためには女性的なものを次々と捨てていかなければならない。これは女の特徴ではないとか、あるいは女と関係したものではないという風に、男性の特質を女性的なものを否定する形で定義していく。
それによって男の子は、触れたり愛撫したり、匂いをかいだり、味わったり、泣いたり笑ったりすべきではないと考えるようになる。なぜならそれは母親がすることだからだ。(ギー・コルノー、1995)こうして男の子は情動的な世界から遠ざかる。
今回のアンケートでも、母親と父親のどちらと衝突が多かったかは、母親と回答したものが圧倒的に多かった(息子調査質問10)。接する時間が多い母親と、衝突が多くなることは、当然の帰結かもしれない。しかし、それだけではなく、チョドロウの述べるように、男の子が性の同一化を図ろうとするときに、母親の性質を切り捨て、女性的なものを否定していくということが、衝突の一因をになっているとも考えられる。
一方、どちらが頼れると思ってきたかについては、父親を選択したものがやや多い(息子調査質問11)。しかし父親に頼れたとする内容について見てみると、経済力や役職があること、社会を良く知っていることなどの回答や、決定権や判断力、最後の責任、力強く生きていく力がありそうなどが理由としてあげられ、一方母親に頼れたとする内容は、身近な生活場面での関わりの中でのものや情緒的な側面がほとんどであった。つまり、実際の生活の中において情緒的に頼っていたのは多くは母親であること、一方で、息子たちが父親の男としての役割や位置に重きをおいていることが伺える。
このことは、スタンレーやウィンチによる、位置への同一化という概念から説明ができる。これによると、女の子は、母親への人格同一化を発達させ、母親と情緒的な関係を結び、その過程と女性としての役割学習の間に結びつきがあるのが特徴だが、男の子は情緒的関係は異性である母親と結び、男性としての役割学習は母親からは得られないという意味で、感情の過程と役割学習の間の結びつきは破られており、男の子は男性の役割の諸面がもつ位置への同一化を発達させるとする。人格の同一化は誰か他者の一般的パーソナリティや行動の特色、価値そして態度への広がりのある同一化からなる。位置への同一化はこれとは対照的に他者の役割への同一化から成っていて、同一視された人格の価値や態度の内面化までには必ずし� �至らない。スレーターによれば、子どもは人格の同一化を優先的に選ぶものだが、これはその場に存在する人格への積極的な感情の関係から生じるからである。位置への同一化は、人格の同一化の可能性が手中にないとき、他者に認められる役割や状況に同一化するのである。男の子の場合、性の同一化の発達や男性の役割学習を父親の人格と継続し進行する関係がないところで、企てなくてはならない。社会学的には父親不在もしくは普通には父親が遠い存在の家族の男の子は、これが男性らしさであるという感覚の発達をその文化が持つ像やモデルとして選ばれた男への同一化を通じて行う。一般的には、女性が女らしさを重要視するよりも、男性が男らしさを重要視する度合いの方が大きい(ヘレン・ハッカー)が、これはこのこと と関係しているのだろう。
日本においても、女性の方が女らしさから自由であろうとする傾向があり、男性はなかなか男らしさから自由になろうとしていない、もしくはなれないように感じることがしばしばある。しかし、同性の父親への人格の同一化の可能性がない男の子たちは、性役割の文化的ステレオタイプへ同一化するしかないのだろう。また、アンケートにおいても、思春期父親に対して思っていたことに、父親のようになりたくないなど父親を否定的にとらえた回答(7名)(息子調査質問7)も少なくなく、このこともまた、身近な男性に同一化するのではなく、映画やTVのヒーローなど、男のステレオタイプに同一化することにつながっていくのだろう。
このように、男の子の同一化の過程が、母親との情動的関係を否定し、父親との情動的関係によらず、男性役割だけを得ていくものであることは、男性の情動的な関係性の否定が進んでいくことにつながってしまう。
アンケートにおいて、父親の接し方の良かった点で、無意味に関与しない、干渉しないなどとの回答が少なからずあった(5名)(息子調査質問5)。父親の影が薄い上に、何かしたことがよかったこととしてとあげられるのではなく、関与しないことがよかったとしてあげられるということについてどのように考えればよいのだろうか。父親の接し方で嫌だった点を見てみると、殴る、激高、八つ当たり、短気などの回答も多い(息子調査質問6)。父親との関わりが少ない上に、父親もまた男としての発達の過程で、その父親との関係を結べず、関係性を否定して生きており、息子にそのようにしか関われないとすれば、関わらないことをよかったということにもなるのかもしれない。また、父親に対して、男らしさを見せてくれ� �、話をきいて欲しい(息子調査質問7)、男対男として接して欲しい、会話や一緒に過ごすことを望む(4名)(息子調査質問8)などの回答は、父親とのよい関わり切望する息子の思いが表れているように感じられる。
一方、父親の接し方で良かった点について、多く関わってくれた、必要なときの必要な手助け、自分のことを話してくれた、個の尊重、判断を子どもにまかせてくれる(息子調査質問5)などの回答や、人間味がある(息子調査質問7)、いざという時は的確なアドバイスをくれた(息子調査質問11)などの回答もあり、これらの面でよい関わりを得られた息子たちもいる。
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(5)母親と息子のゆがんだ密着−母親の人生の代行と心理的インセスト
子どもに何か問題が生じると、母親の子育てのまずさが問われたりする風潮は一般社会にあるだけではなく、専門家の中にもある。一方、スポーツ選手など息子が成功した場合に、その母親が必ずマスコミに取り上げられるのも、同じ現象の裏返しである。子どもの出来次第で母親の人格や能力が評価されてしまうのである。
アンケートにおいて、息子は「母が女性という性差で果たせなかったことに対しての夢の代行」という回答(母調査質問2)があった。現在に至っても、女性が自己実現をしようとする際の、社会の制約は少なくない。その上、母親役割の期待が大きく、母親が女性であるがために自分の人生を存分に生きられなかったとすれば、同性の娘よりは自分が生きられなかった部分をより手に入れやすい立場にいると感じられる息子に、自分が生きられなかった部分の人生の代行を無意識に期待するということにもつながることになろう。また、母親が子どもの出来によってしか評価されないなら、なおさら、評価を得やすい息子に期待するということになろう。しかしそれは、息子に重荷を背負わせ、息子の人生を阻んでいく危険性がある� �
また、家庭内で男が不在であり、情緒的関係をもてずに関係性を否定しているとすれば、それは母親にとっても夫が不在であることを意味する。母親はこの状況に対する反応を息子に向け、幼児としての息子への関係と男性としての彼への性的関係を混同してしまうことがある。彼女の愛情と関心を夫の次に明らかな男性、息子に向け彼に対してとりわけ誘惑的になる傾向がある。母親と息子間の世代の境界がぼやけると、息子が母親の男性としてのパートナーの役割にまで高められる(チョドロウ)。母親から父親の愚痴を聞かされたことが、子どもの心に大きな傷を残しているという話を聞くことも多いが、これは心理的なインセストの関係においてよくおこることである。また、アダムス(1991)は、結婚生活における長期の愛着の� �如はそれだけで、子どもに対してセクシャルな雰囲気を生み出し、子どもに影響を及ぼすのに十分であると述べている。
今回のアンケートの回答で目を引いたのが、息子は愛する対象、溺愛しそう、セクシャルな面が加わる(異性愛を投影する)、理想の男性を求める、ファンタジーなどの回答である。(母調査質問2)また、息子の側からも、母親の接し方で嫌だったと思うことに、「溺愛」「べたべたしている」などの回答があった(息子調査質問2)。これは、母親が夫不在を息子で埋め合わせようとし、夫に向けるべき愛情と関心を、息子に傾けていることの現れだと考えられる。
パーソンズは、この関係を母親はうまくあやつり、息子の充足を遅らせたり、昇華させたり、性愛的欲求を抑圧させるために適切な瞬間をとらえて、息子を愛したり報いたり、あるいは欲求不満を起こさせたりできるとする。アンケートにおける、母親にとって男の子は優しいなどの回答は、このことと関係しているのかもしれない。
母親が息子をパートナー代わりにしていくプロセスとこの影響についてはアダムスが、以下のような興味深い考察をしている。満たされない結婚生活による孤独や空虚感が、息子を代理のパートナーとすることにつながる。息子が親の欲求を満たす対象となったとき、親としての子どもの世話と、代理のパートナーとしての心理的なインセストとの境界がぼやけてくる。心理的なインセストをうけた息子は、父親よりも自分が愛情を受け、頼りにされている訳だから、自分は特別であり特権が与えられていると感じている。一方では父親に見捨てられてもいる訳であり、特権的な感覚はもちろん表面だけであり、怒りや恥や罪悪感がその下に隠されてはいる。しかしその特権的な地位により、子どもとしての愛や養育や安全が失われた� �みが否定される。そして、親密性を怖れ、健康な愛情関係や性的関係をもつことは阻害される。また、このようにして大きくなった男は、女性をコントロールし、虐待することがある。母親に、侵害された痛みを否定し、怒りや恨みをパートナーに向けるのである。
息子へのアンケートにおいて、母親の接し方で嫌だった点、思春期母親に思っていたこと、母親は息子にどのように接するのが望ましいかという、3つの質問から共通して伺えるのは、母親の干渉を嫌う息子の姿である(息子調査質問2、3、4)。思春期について言えば、男女ともに自我同一性を確立する過程で、親の干渉を疎ましく思うのは自然なことではあるし、父親が不在で母親が子どもの養育の大部分を担っているとすれば、自立の葛藤を母親との間でより起こしやすいともいえる。しかし、そこには、人生の代行に伴う干渉への反発や、代理のパートナーとされた息子たちが、その重苦しさに耐えかね、それを何とかはねのけようとしている気持ちが含まれていると思われる。
母親と息子のゆがんだ密着は、息子を深く傷つけていく。そればかりではない。母親が、息子ばかりに愛情を注ぎ、娘とは差をつけた待遇をしたことで傷ついた女性の話を聞くことは多い。母親が、夫に向けるべき愛情を息子に向け息子に特権を与えると言うことは、そこに娘がいた場合、軽んじられた娘をもまた、深く傷つけているはずである。
また、E・バタンテール(1997)によると、母親が息子に重くのしかかればかかるほど、息子はますます女性を恐れ、避け、抑圧し、そういった母親が女性差別主義の息子を生み出すという。リリアン・リューバンは男性が女性を蔑視するのは、傲慢だからではなく、女性が恐いからであり、それは全能の母親という巨大な存在を追い払わざるをえない子どもが抱く恐怖であると述べている。ドメスティックバイオレンスを受けた女性から聞く、夫の姿は、まさにその母親にコントロールされている息子の姿だ。母親による母親の人生の代行や、心理的なインセストは愛と世話という名目でなされるため、子どもにはそれが気付きにくい。母親の側は無意識に行っていることが多いであろう。このようにされた子どもは、子どもとしての愛 や養育や安全を奪われ、母親の欲求を満たす対象となり、利用されているわけであるので、怒りや恨みをためている。女性に対する深い恨みを持ちながらも、自らの子ども時代が奪われた痛みには向き合えず、今なお母親にコントロールされ続け、その恨みや恐怖を、恋人や妻をコントロールしながらぶつけていると考えられる。結局、母親による排他的な子育ては、息子のみならず、女性をも不幸にしているといえる。
また、アンケートにおいて、「息子は結婚するまでは息子、娘は結婚しても娘(息子は結婚すれば母親から離れていくが娘は結婚しても離れてしまわない。」と言われることについて、そうなると思うと回答した母親が多かった。また、それは母親と仲良くする息子に対して、世間の目、特に妻の目が厳しいからだとした回答もあった。(母調査質問3)しかし、母親と息子にゆがんだ密着があるとすれば、それに対して、息子自身も距離をとろうとするだろうし、それに対してパートナーとなった妻の目が厳しくなり、距離をとろうとするのは自然なことかもしれないと思う。
最近、少年犯罪や家庭内暴力が世間の注目をあつめている。ここでは詳しく検討することはできないが、この文脈から考えることがこれらの現象の理解への、何らかの手がかりが得られるものと思われるが、それは今後の課題としたい。
(6)まとめ
父親の不在と異性である母親による排他的子育て、そして性役割への期待もあいまって、男の子は情緒的共感を得られにくい。一方、母性の強調や、母親の自己実現の機会の制約、そして母親にとっての夫の不在は、息子を母親へ依存させ続けることにつながったり、息子が母親の人生の代行の期待を受けたり、心理的インセストの関係が生じることへとつながる。また、身近な大人の男性がいないことは、息子に性の同一化の過程での困難をも引き起こす。性の同一化の過程での困難や、母親の人生の代行者となったり、心理的インセストを受けることは、男性の関係性の否定へとつながる。それは、将来の女性との関係をいびつなものとしていく。
父親とは関係が結べず、母親からも十分な情緒的共感は得られず、性同一化の過程で情動的関係を否定し、自立するにさいして人生の代行者の役割や、心理的インセストの関係を断ち切っていかなければならない息子。そして分離独立を果たした後、娘のように日常の相談や出産や育児を通して再び接点をもつことができない息子。なんとも寂しいではないか。ならば、他で親密な関係が持てるかといえばそれも難しい。これらの息子にとっては、最も親密な関係であった母親との関係がそうであったように、親密な関係は利用される関係であり、怒りや恥や罪悪感を引き起こす関係と感じられるのである。ならば、それから身を守るために、個人的で感情的な関係への欲求を抑圧しなければならない。そして、それは仕事の世界で、� �感情的で非個人的な関係のなかに安住していくことにつながっていくのである。
3.望ましい母親と息子の関係のための、父親、母親、そして社会の課題
ここまで、母親と息子の関係について考察してきたわけだが、これらの困難な関係を次世代へと繰り替えさないように、父親、母親そして社会に求められることは何だろうか。
(1)父親の課題
父親(夫)の不在や、関係性を否定して生きていることが、母親と息子の関係を困難なものとし、息子も関係性を否定して生きていくことにつながり、男の関係性の否定が再生産されていくという悪循環を、男も実り豊かな関係性を手に入れていく方向へと変えていくために男たちにできることは何であろうか。
@ 親との関係の見直し
この社会において少なからぬ男性が、父親が不在であり、母親とのゆがんだ密着を経験してると考えられる。自らの親との関係の見直しが、まずは必要となろう。父親、母親ともに子どもとしての愛や養育を得られなかったという痛みに向き合い、その心の傷を癒していくことが必要である。アダムスが、母親の理想化されたイメージを捨て去り、怒りを認識し、もし母親が生きているなら境界線を引き離れていくこと、そして父親に対する感情も扱っていくことなど、いくつかの方法を提唱している。そうすれば、親密な関係を怖れ、個人的で感情的な関係への欲求を抑圧して、仕事の世界に逃げ出すことも減るだろう。
A 相互の世話、自分の世話を学び、自立すること
母親からの世話を受け続け、そこから自立できずに、結婚後はそれを妻に移し替え、情緒的、物理的世話を求め続けているままでは、男は本当には親になれないのではないだろうか。いつまでも世話を受ける子どものままではなく、女に限らず周りの大人と相互に世話をし合う関係をつないでいくこと、そして自分自身を自分で世話することを男は学んでいく必要がある。そしてそれは、夫婦の関係を支配されつつ支配するといういびつな関係から解放し、そのことで、男も家庭内に存在しやすくなるのではないだろうか。そうすればその息子は女だけが情緒的、物理的世話をするものという考えがなくなるだろうし、それがさらによいパートナーシップを結んでいくことにつながるだろう。
B 子育てに関わること
父親自身にとっても、子育てに関わることは、恐れや不安をそれほど感じずに感情移入やつながり、親密な関係を経験できるよい機会となろう。愛情を注ぐ能力を養うことにもなろう。
父親(夫)の存在は、母親と息子の閉塞的な結びつきを破るのにも役に立つ。また、父親の本当の意味での存在は、息子が男性として同一化を図ろうとするときに、母親の特質を否定することによって同一化を図るのではなく、父親の特質を肯定することによって同一化をはかることができる。男性の位置への同一化や男性役割の文化的スレテオタイプに同一化するのではなく、情動的関係を含む人格の同一化をはかることができる。これにより実り豊かな関係性を手に入れる土台を手に入れることができるのである。
(2)母親の課題
次に、母親の課題について考えてみたい。
@ 父親と子どもの関係をつなぐ母親の役割
父親が家庭内に存在しようとしたときに、母親と子どもとでできあがってしまった世界に入れず、疎外感を感じてしまうことがある。不況になり、父親が家庭に戻ってこようとしたときに、戻る場所がないというのはよく聞くことである。それは、父親をまた家庭外の世界に追いやることにつながってしまう。もちろん、父親が子どもが幼いうちから積極的に子育てに関わることができていれば、このようなことにはならないのであり、それが必要なことはいうまでもない。
しかし、これについては母親自身も、変化していく必要があるのかもしれない。これまでにも述べてきたように、女性が、自己実現の機会を得られず、自分自身の存在や価値に自信が持てないときに、唯一自分だけを求めてくれる子どもが、自分の存在価値を証明する道具となることがある。このため、自分が子どもにとって唯一重要な存在でありたいと願い、父親と子どもとの関係の発展を望まないことがある。母子の絆を唯一至上のものとせず、父子の関係の形成を促す方向に、母親の方も意識を変えていく必要がある。
バソフ(1994)の、父子関係の形成のさい、母親がいない父子だけの時間を設けさせることが大切であり、そのとき、父親に子どもの世話の仕方をあれこれ教えずに、父親が自ら試行錯誤しながら、自分なりの関わりのスタイルを見いだしていくことが必要だとの見解は示唆に富んでいる。母親だって、最初は試行錯誤しながら、母子関係の形成をしてきたはずなのだから、父親にもできないはずはない。
また、リッチ(1990)は、父親が子どもの世界を部分的にも受けもつとき、そのことを女がほめたり感謝したりすることをやめなければならないとする。それは、女とちがわず、男もほめられたり特別視されなくても、女と同じようにふるまうことができるという考えにつながるからだと述べる。子育てに父親が関わるとき、それは母親の責任を肩代わりするということではなく、片方の親としての当たり前の責任なのだから、ほめたり特別視することは、却って父親としての存在を軽んじることになるのではないだろうか。
男にとって、親としての役割が自然なものになっていき、父子関係が形成されるためには、女の方も、母子関係を特別なものとしたり、子育てを女のものとし、女に優れているとする考え方を変えていくことが必要であろう。
これは母親と子の閉塞的な関係を破るばかりでなく、母親が子育てを一人でになうという重すぎる責任から開放し、子育て以外のことへと目を向ける余裕も生みだすことになるだろう。
A 男の世話から手を引いていくこと
息子が自立するのに応じて、母親は息子の世話をし続けることで、いつまでも息子を依存させることから手を引いていかなければならない。それには次のBでも述べるように、母親が自分の人生に関心を向けることが大切だろう。そうすることで、子どもに、子どものために生き、欲求を満たしてくれ、すべてを与えられる母親という幻想を捨てさせ、それが子ども自身が自分で自分の世話をする能力や、他者と相互に世話し合う能力を養うのに役立つだろう。
もちろん、息子の自立に応じて息子の世話から手を引くといっても、それは息子との関係を絶っていくということではない。ドォーレィ、フェデート(1999)らも強調するように、息子との健全な情緒的関係(母親の欲求の対象とするようなゆがんだ関係ではなく)を、つないでいくことは息子の他者と関係をつなぐ能力の形成に役に立つだろう。そこに世話をする役割だけではない母親と、世話を受けるだけではない息子との新たな関係が生まれるかもしれない。それは、世話をする役割だけでない妻と、世話を受けるだけではない夫との関係への橋渡しとなるだろう。
女が子どもである息子の世話から手を引くのであるから、当然大人の男(夫など)の世話からも手を引いていくことは必要だろう。世話を拒否する女は、非難されがちな社会ではあるが、結局、それは男が大人として自立しうることを認め、尊重することになるのではないだろうか。それが父親の課題でも述べたように、父親自身の自立につながり、息子にもよいモデルを示せることとなる。もちろん世話から手を引くというのは、一方的な世話のことであって、大人同士の相互の世話は望ましいし、むろん情緒的関係を絶つということではない。
B 母親が自分の人生を充実させ、他の大人との関係を充足させること
チョドロウは、おんなが意義のある生産的仕事をなし、親業のかたわら大人同士の協同をわかちあい、他の大人と充足した情動面での関係をもっている社会ではおんなが子どもに過剰投与することはあまりないと述べている。また、ベンジャミン(1996)も、自分の願望と野心とフラストレーションを抑圧しきっている母親は、子どもの喜びや失敗に対して共感することができないし、子どもが求めてやまない母親からの承認は、母親が独立した自己を持っている場合しか与えることができないと述べる。
女性が母親となったとしても、「母性神話」「母性幻想」いう母親からの子どもへの愛情と献身を美化する母性概念にまどわされることなく、自分の人生を充実させて生き、夫や他の大人との関係を充足させることが大切であろう。母親が子育て以外のところで、自分の力を感じることができれば、子どもをいつまでも依存させ、コントロールすることで権力を振るい、自分の力を確認するという必要もない。母親が自分自身の人生を生きることで、息子に母親の人生の代行を期待することはなくなる。子育てが、母親にとって唯一自分自身の存在価値を証明するものでなくなれば、母親が父子の関係の発展に積極的な役割を果たせることにもつながるだろう。夫との関係を充足させることで、息子を母親のパートナーとしていくこと� �少なくなろう。それにより、男の子は関係性への恐怖を持ったり、個人的で感情的な関係への欲求を抑圧したりする必要がなくなろう。それが、ひいては男の女性恐怖からくる女性蔑視をなくしていくことにもつながる。そうすれば、男はパートナーと実り豊かな関係を築くことができるし、そうなれば、男は非感情的で非個人的に仕事の世界へと安住の地を求めることもない。家庭内に父親が本当の意味で存在すれば、さらにその息子たちに良循環が起こり、良い世代連鎖が起こることが期待できる。
(3)社会の課題
最後に社会の課題について考えたい。
@ ジェンダーフリーの子育て
親に限らず、保育所や学校など子どもの養育に関わる人たちが、男の子に男らしさを期待することで、周りに弱みを見せたり、情緒的な共感を求めることを禁じないようにすることや、子どもを養育したり、他者と情緒的な関係をつないでいく能力を摘んでしまわないようにすることも大切だろう。
アンケートにおいて、多くの女性が固定的性役割に近いメッセージを得てきたにも関わらず(母調査質問1)、息子と娘に期待するものを問うたとき、期待することに差はないとの回答が最も多く、性役割に反する部分を伸ばして欲しいとの回答すら少なくなかった(母調査質問4、5)。私のつてで頼んだアンケートであり、このあたりには多少の偏りはあるにしても、多くの女性が固定的性役割のメッセージを得てきたにも関わらず、少なからぬ女性がそれを批判的に捉え、少なくとも意識的には、子どもの世代にそれをそのまま受け継がせたくはないと思っているものと考えられ、この先の変化には少し期待ができるのかもしれない。この変化は男性にも望みたいところだ。
A子育てへの社会的サポート
母親による排他的子育てを緩和していくためには、父親の存在だけでなく、母親と子が社会に開かれた関係を持てることも大切である。都市化、産業化により、地域や親族との関係が薄れた今、それを個人の努力によって変えていくのは簡単なことではない。子どもが母親以外の大人と、もっと親密な関係を結ぶことができるような、そして母親も他の大人との関係を充足させることができるような施策、例えば子育て支援などを名実共に充実させていくことなども必要だと思う。
今回は、息子に注目したが、こういった親の対応や社会の変化は、娘にとってもよい影響を及ぼしこそすれ、決してマイナスに働くことはないだろう。
4.おわりに
本稿では、母親と息子の関係を検討してきたわけであるが、そこには父親の存在(不存在)が深く関係していることが明らかとなった。父親の存在は、母親の息子に対する接し方にも影響を及ぼし、重要ではあるが、ここでいう父親とは生みの父親でなければならないというつもりはないし、必ずしも家庭内に存在しなければならないとも思わない。父親がいなければ、男の子にとって父親に代わる大人の男が、物理的にも心理的にも存在していれば、それは十分に機能しうるものと考えている。
しかし、いったいこれは男(父親)でなくてはならないのだろうか。女(母親)では代わりは務まらないのだろうか。文化的、社会的、心理的に作られた性差が、まだまだ大きい現代においては、男として生きることは、女として生きることは違った社会の期待を受け、圧力を受け、困難に出会い、賞賛を受ける。男と女はかなり異なる文化の中で生きているともいえる。その中にあって、男は男としての性同一化を果たしていく方が、この社会に適応しやすい面があるようには思う。だから、男は男としての性同一化をはかろうとする。(とはいっても、それは位置同一化である場合が多い。)それゆえ、女(母親)では代わりが務めるのは、なかなな難しいことだと思われる。
しかし、必ずしも男でなくてはならないとまでは思わない。一方では男としての性同一化をはかることが、男性を縛り、不自由にもしているのである。ジェンダーフリーな育ちをした男の子の身近な大人が、女であろうと男であろうと、ジェンダーに縛られず、全人的に生きており、その姿が魅力的であれば、おそらく、男として同一化し社会に適応していくことより、人間としての人格同一化をはたし、ジェンダーに縛られずに、自由に生きることの方が魅力的に映るだろう。(ただし、排他的子育てにならないために、女であろうが男であろうが、子どもが複数の大人との関係を持つということは重要である。)
さらに、この先、文化的、社会的、心理的に作られた性差が、小さくなっていき、男として生きることと、女として生きることが現代ほど異なるものではなくなれば、男の子の成長にとっての、大人の男の存在を今ほど強調しなくても済むのではないだろうか。それでも、生物学的な性差は残るであろうが、性の同一化が今ほど重要ではなくなり、同一化の対象を、同性に限定することなく、いわゆる「男性的なもの」「女性的なもの」を取り混ぜて、もっと自由に人間としての同一化という方向に進めるのかもしれない。それが、生まれついた男、女という性により、人生の可能性を狭めることなく、自らの生を存分に生きることにつながっていくのではないだろうか。そんなことを期待しつつ本稿を閉じたいと思う。
最後になりましたが、アンケートにご協力いただきました方々に心よりお礼申し上げます。
引用・参考文献
アドリエンヌ・リッチ(1990)『女から生まれる』(高橋茅香子訳)晶文社
Cate Dooley&M.S.Nikki Fedete(1999)Work in Progress Mothers and Sons−Raising Relational Boys Stone Center
E・バダンテール(1997)『XY−男とは何か』(上村くにこ・饗庭千代子訳)筑摩書房(リリアン・リューバン、ヘレン・ハッカーは本文献から引用)
Evelyn S Bassoff(1994) BETWEEN MOTHERS and SONS−THE MAKING OF VITAL AND LOVING MAN PULUM/PENGUIN
フランシーヌ・コント(1999)『母親の役割という罠−新しい母親、新しい父親に向けて』(井上湊妻子訳)藤原書店 (C・オリヴィエは本文献より引用)
ギー・コルノー(1995)『男になれない息子たち』(平井みさ訳)TBSブリタニカ
ジェシカ・ベンジャミン(1996)『愛の拘束』(寺沢みずほ訳)青土社
柏木恵子(1993)『父親の発達心理学−父の現在とその周辺』川島書店
Kenneth M.Adams(1991)Silently Seduced−When Parents Make Their children Partners.Understanding Covert Incest HCI
木村栄、馬場謙一(1988)『母子癒着−母を拒み母を求めて』有斐閣
村本邦子(1997)『しあわせ家族という嘘』創元社
ナンシー・チョドロウ(1981)『母親業の再生産−性差別の心理・社会的基盤』(大塚光子・大内菅子訳)新曜社 (スタンレー、ウインチ、スレーター、パーソンズは本文献より引用)
ルイ・ジュヌヴィ、エヴァ・マルゴリー(1989)『母親』朝日新聞社
田中喜美子他(1994)『母と息子−フェミニズムの流れの中で』筑摩書房
上野千鶴子(1994)『マザコン少年の末路−男と女の未来<増補版>』河合ブックレット1 河合出版
1.アンケートの方法
アンケートは2000年5月20日から6月3日に実施。手渡しで依頼し、郵送、アンケート回収箱、もしくは手渡しで回収。知り合いなどのつてで依頼したので、この結果は一般化できないが、それでも30通前後ずつ集まったので、この中から何らかの示唆は得られるものと考えられる。統計的な資料を得るのが目的ではないので、記述を多くし、その記述の中から、母と息子の関係を見るというのがこのアンケートの主旨である。
2.アンケート内容と結果
(1)母調査
・回収率: 47通配布し、37通回収。回収率79%。
・ 年令:31才から60才。30歳代14人、40歳代15人、50歳代7人、60歳代1人。平均年齢43才
・息子、娘の有無:共にいる、20人。息子だけいる、6人。娘だけいる、11人。
すべて自由記述回答とした。
質問1:<あなた自身はこれまで一般的に娘と息子について、親、きょうだい、学校、社会などからどのようなメッセージを得てきましたか。>
最も多かった回答は男の子はこうあるべき、女の子はこうあるべきという固定的性役割によるメッセージを得てきたとするもので、13名の回答があった。一方、これもジェンダーとも関わっているとも思われるが、娘の方が母親の支えとなり、世話をしてもらえるなどとするものが8名であった。 特別な差は感じてこなかったとの回答が3名、いずれも30才代の回答者であった。そのほか、「母親にとっては男の子は優しく、女の子は厳しい」とするものが3名、「母親は息子がいくつになってもかわいく、娘は同性という立場で母親を見る。」「成人するまでに息子の方に手もかかるが、気持ちの方も多分に気がかりと聞く。」などの回答があった。
質問2<母と娘の関係と、母と息子の関係はどんな風に違うと思いますか。>
娘と息子で対照的な回答であったのは、以下のとおりである。
息子との関係においては自分の経験からから判断しにくい、理解しにくい、予想がつかないなどの回答が5名。一方、娘との関係においては自分の過去を振り返りながら接する、理解しやすいなどの回答が6名であった。この逆の回答はなかった。
また息子との関係は、距離がおける、対象化しやすいとするものが6名、娘との関係においては距離が近い、共感しやすい、客観視しにくいというものが10名であった。この逆の回答はなかった。
また上記の娘との距離の近さと関係するものと思われるが、娘はよき相談相手、友達、対等、頼りになる、支え、相互に依存的などの回答が10名、同性なので短所がよく見え批判しやすかったりライバルとなるとの回答が7名であった。
また、息子は愛する対象、息子は溺愛しそう、セクシャルな面が加わる(異性愛を投影する)、理想の男性を求める、ファンタジーなどの回答が6名あった。また、異性としての夢の代行(母が女性という性差で果たせないことに対して)との回答もあった。
そのほか、また子どもの態度としては娘の方が早く自立し親離れがしやすいとの回答が3名、息子の方が親を頼るとする回答が2名。親の方も気がかかったり手がかかるのが息子だとする回答が5名だった。息子はあまり話さなくなり離れていく、結婚したら物理的距離も心理的距離も遠ざけなければならないように思う、べたべたしないよう気をつけるなどの回答6名であった。
質問3<息子は結婚するまでは息子、娘は結婚しても娘(息子は結婚すれば母から離れていくが娘は結婚しても離れてしまわない)と言われれることがありますが、これについてどのように思いますか。>
そう思うという回答が10名、いずれも娘がいる女性だった。留保付き賛成(息子は物理的には離れるが精神的にはそう思わないなど)が4名であった。
環境や親またはこの考え方によると思うので一概には言えないなどの中立の立場の回答が9名、反対だと思う(母がいつまでも息子に援助し、息子もそれに頼るなど)との回答が3名であった。
その他、「息子が母と距離を置くのは本意ではなく母と仲良くする息子に対しての世間の目、特に妻の目の厳しさによるのだ」、「家の中のことは女がするから相談のために実家に帰ることも多いが、息子も気持ちは親から離れているとは思わない」、「男は身辺のお世話が母親から嫁に変わっただけということが多く、そのせいで母から離れるということになるのでしょう」、などの回答があった。
質問4<娘に期待することは何ですか。(もし娘がいれば期待することは何ですか)。>
質問5<息子に期待することは何ですか。(もし息子がいれば期待することは何ですか)。>
固定的性役割に近い期待をする回答が4名。娘と息子に期待することが同じだとの回答が15名。また、今の社会の役割期待に反する部分を伸ばして欲しいと期待するものが5名であった。また息子については、一生私のかわいい息子でいてくれれば愚息でもなんでも構わないと思うとの回答もあった。
(2)息子調査
・回収率: 44通配布し、27通回収。回収率61%。
・年令:21才から56才。20歳代6人、30歳代8人、40歳代9人、50歳代4人、平均年齢39才
質問1から質問8については自由記述回答とし、質問9から質問13については父か母かを選択の上、自由記述回答を加えた。
質問1<母親のあなたに対する接し方でよかったと思うところはどんなところですか。>
優しい、甘えさせてくれる、思いやりなどの情緒的ケアに関するもの回答が7名、意見の尊重、自己決定させてくれるなどの回答が6名であった。その他複数回答があったものは、信頼してくれた(3名)、日常的な世話などの物理的世話(2名)、道徳的なしつけの厳しさ(2名)、干渉しない(2名)、である。
質問2<母親のあなたに対する接し方で嫌だった思うところはどんなところですか。>
考えの押しつけ、干渉しすぎる、支配的すぎるなどの回答が10名、溺愛、べたべたしているなどが3名であった。特になしという回答も7名あった。
質問3<思春期、母親に対して思っていたことはどんなことですか。>
うっとおしい、関わりたくない、過干渉などの回答が9名、これと関連しているものと思われるが、自立心が壊される、自立できないもどかしさなどの回答が2名であった。その他ゆとりがない、自分に甘えてるなどの否定的回答が4名、感謝していた、相談役だったのどの肯定的回答が5名あった。
質問4<母親は息子にどのように接するのが望ましいと思いますか>
複数回答あったものとしては、距離をおいて見守る、干渉しない、最終的判断は子どもがすることを前提に親は情報提供するなどの回答が最も多く14名、時に厳しく時に優しくなどの回答が3名であった。
質問5<父親のあなたに対する接し方でよかったと思うところはどんなところですか。>
無意味に関与しない、干渉しないなどが6名、自由などが3名、遠くから見守るなどが2名、威厳が2名、個の尊重、判断を子どもに任せてくれるなどが2名、叱るときはしっかり叱るが2名であった。その他、自然環境の恵まれたところで多く関わってくれた、自分のことをよく話してくれた、終始おだやかに見ているなど1名ずつの回答であった。
質問6<父親のあなたに対する接し方で嫌だった思うところはどんなところですか。>
殴る、激高、八つ当たり、短気などの回答が6名、決めつける、自由を認めない等の回答が6名、放任、他人行儀などの回答が4名であった。
質問7<思春期、父親に対して思っていたことはどんなことですか。>
尊敬、人間味がある、感謝していたなどの回答が6名、父のようになりたくない、まじめすぎなどの否定的回答が7名。話を聞いて欲しい、男性的な面を見せて欲しいなどの回答が3名、もっと自由を認めて欲しいなどが2名。何も言わない人、全然気にしていなかったという回答(2名)もあった。
質問8<父親は息子にどのように接するのが望ましいと思いますか。>
会話や一緒に過ごすなどの回答が4名、適度な距離をあけるが2名、大きく構えるが2名であった。他には、ゆとりを持つ、自分を大切にすること、感情的に怒らない、生き方の大筋を示す、男対男として接するなど1名ずつの回答であった。
質問9<母親と父親どちらに親しみを感じてきましたか(近いと感じてきましたか)。>
母を選択したのは15名。理由は一緒にいる時間の長さを挙げたものが最も多く(6名)、次いでいろいろ話が出来たとの回答(4名)であった。父を選択したのは5名。理由は、父とは距離が適度に離れていたからうっとしくなかったとの回答が1名、成人以降は父の方が近いと感じたからとの回答が2名であった。
質問10<母親と父親、どちらと衝突が多かったですか。>
母を選択したものは18名。どんな衝突だったか、もしくはその理由については、些細なこととの回答(3名)や、細かいことに干渉(4名)などであった。父を選択したものは4名。うち進路についての衝突との回答が2名だった。
質問11<母親と父親、どちらが頼れると思ってきましたか。>
母を選択したものは7名。どのように頼れるかについては、くじけそうなときに叱咤激励してくれた、最後まで見てくれる、いろいろ自分にしてくれた等、身近な生活場面や関わりの中で頼れたとするものがほとんどだった。父を選択したものは13名。経済力(2名)、決定権や決断力(3名)、そのほかは、役職がある、社会を良く知っている、最後の責任は果たす、力強く生きていく力がありそう、人に対する優しさ信頼があったなどの回答であり、どちらかと言えば、自分との直接的な関わりとは離れた面で頼れたとするものがほとんどであった。いざという時には的確なアドバイスをくれるという回答もあった。
質問12<母親と父親、どちらとより気持ちを分かち合えてきましたか。>
母を選択したものは12名。うち接する時間の長さや会話があったことをあげたものが5名、相談できたとするものが2名であった。父を選択したものは8名。論理については共感し会えたとの回答や、何となく父の考え方を分かってた気がするとの回答や、どちらかといえば父だけど分かち合えてきたというほどのことはなしという回答などがあった。
質問13<あなたにとって親離れがしやすかったのは、母親と父親のどちらですか。>
母との回答は1名。父との回答は19名であり、父とは接する時間の短さや会話のなさを理由に挙げたもの(5名)や、もともと離れていたとの回答もあった。
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